有名建築紹介

三仏寺投入堂(さんぶつじなげいれどう)
平安後期/鳥取県/国宝

三仏寺
修験道の道場として、険しい三徳山( みとくさん) を境内とする寺院。開山は706 年。役( えん) の行者が、3枚のハスの花びらをちらしたところ、その1枚が、三徳山の山中に落ちたといい、そこから修験道の道場が始まったという。阿弥陀如来、大日如来、釈迦如来の三尊が安置されているので、三仏寺と称する。険しい山道を経て、木の根を使って崖を登っていくと、文殊堂や地蔵堂などの小堂が次々と姿を現す。数時間の後、その山奥に、投入堂はその姿を現す。

投入堂
役( えん) の行者が、その力で岩屋に投げ入れたお堂とも言い伝えられ、そのため投入堂と称される。奥の院の岩山の断崖に懸造( かけづくり)として、取り付いている。切妻造の屋根の三方に庇をつけ、さらに両端の隅に小さな庇を設けている。柱は、床下の岩盤に応じて様々な長さとなって、軽やかに舞う。近づく道はない。

□出題例

No.1: 三仏寺投入堂は、修験の道場として山中に営まれた三仏寺の奥院であり、岩山の崖の窪みに建てられた懸造りである。(H17)
→(
No.2: 三仏寺投入堂(鳥取県)は、修験の道場として山中に営まれた三仏寺の奥院であり、岩山の崖の窪みに建てられた日吉造りである。(2級)
→(× 三仏寺投入堂は懸造りであり、日吉造りではない。)

東大寺南大門(とうだいじなんだいもん)
鎌倉時代/重源/奈良県/国宝・世界遺産


聖武天皇が、護国的な性格をもつ総国分寺として、国力を傾けて建立させた。同時に、大学・研究所のような学問寺ともなる。
盧舎那仏( るしゃなぶつ) すなわち大仏を、その中心とする。南大門からアプローチし、大仏殿、法華堂( 三月堂)、二月堂、鐘楼、正倉院などが広大な境内に位置する。

南大門:鎌倉時代1199年(国宝、世界遺産)奈良時代(天平)に創建された門の再建。
二重の門で、外観は2層に見えるが、2階建てではない。
通し柱として、上の屋根を支え、下の屋根を側部に付けている。
2層分の深い吹き抜けに天井はなく、屋根の材が直接見える化粧屋根裏。
大仏様(天竺様)の代表例とされる。
柱と貫など、シンプルな架構が力強い表現。
大規模建築としての生産性も考慮し、肘木、桁などが、同一の規格材が多い。

大仏殿(国宝)
「奈良の大仏さま」が祀られている。世界最大の木造建築。
焼失と再建を繰り返して現在に至る。

創建:751 年。その後焼失。
鎌倉時代に再建:1190 年。このとき重源( ちょうげん) が、造営を指揮するような大勧進職として、復興に尽力した。大仏様( 天竺様) の手法を採用した。その後焼失。
江戸時代に再再建:1705 年。現在のものになる。全体として縮小され、天井が張られるなど変更されたが、架構などに大仏様が残っている。

□出題例

No.1: 東大寺南大門は、天竺様(大仏様)の建築である。(H1)(H12)
→(
No.2: 図1は、貫(ぬき)で軸部を水平方向に固め、挿肘木(さしひじき)を重ね
て軒の荷重を支える大仏様の建築物である。(R03)
→(

慈照寺(じしょうじ)
15世紀後半時代/京都府/国宝・世界遺産


慈照寺
銀閣寺は俗称で、正式には慈照寺。足利義政が、1482 年から造園した山荘( 未完) が東山殿と呼ばれた。義政の死後、東山殿は寺となり、義政の法号にちなんで慈照寺と呼ばれる。
東山殿は、東山文化(※1)の代表とされる。

観音殿(1489)
銀箔は張られていないが、銀閣と通称される。2階建て。
2階は、禅宗様の持仏堂(※2)風、1階は、住宅風。
金閣の構成と似ている。

東求堂(1485) 国宝
義政個人の持仏堂(※2)で、約7m×7mの平面。
「同仁斎」と呼ばれる4畳半の部屋がある。付書院と違棚などがあり、現存する最古の例で、書院造の源流をなすと考えられている。また、茶室のおこりになったともいわれる。付書院の障子が開けられるとき、その開口部は風景を縁取る額縁であり、風景を掛け軸にしている。

大仏殿(国宝)
「奈良の大仏さま」が祀られている。世界最大の木造建築。
焼失と再建を繰り返して現在に至る。

江戸時代に再再建:1705 年。現在のものになる。全体として縮小され、天井が張られるなど変更されたが、架構などに大仏様が残っている。

創建:751 年。その後焼失。
鎌倉時代に再建:1190 年。このとき重源( ちょうげん) が、造営を指揮するような大勧進職として、復興に尽力した。大仏様( 天竺様) の手法を採用した。その後焼失。
※1 東山文化:足利義政の時代、室町中期の文化をいう。
幽玄、侘びなどの美意識の概念でも説明される。
>枯山水( 岩石と砂利等が中心で構成される庭園)、絵画の狩野派、水墨画の雪舟、茶の村田珠光など。
※2 持仏堂:個人が日常時に礼拝するための私的な堂。

□出題例

No.1: 慈照寺東求堂の同仁斎は、四畳半茶室の起源といわれる。(H4)
→(
No.2: 銀閣と同じ敷地に建つ東求堂の同仁斎は、現存する最も古い違い棚と付書院をもつ「四畳半」である。(H11)
→(
No.3: 銀閣と同じ敷地に建つ東求堂( とうぐどう)(京都府)は、書院造りの先駆けであり、四室のうちの一室は同仁斎( どうじんさい) といわれ、四畳半茶室の最初と伝えられている。(2級)
→(

清水寺 本堂(きよみずでら ほんどう)
1633年/京都府/国宝

いわゆる「清水の舞台」で知られる、懸造(かけづくり)の代表例。
本堂は、傾斜地に沿って建ち、前面の舞台部分を、長い束柱(つかばしら)と、それをつなぐ梁のような貫(ぬき)によって、ジャングルジムのような姿を見せる。こうした懸造の例は、東大寺二月堂、長谷寺本堂、切り立った崖に張り付くような三仏寺投入堂等がある。
清水の名は、東山から湧き出る水を霊水としたことから。観音信仰の霊場として始まった。創建は、平安時代の初期とも言われるが、これまで9度の火災を経て、現在の本堂は、江戸時代初期の1633 年に再建されたもの。

□出題例

No.1: 清水寺( 京都府) は、急な崖に建っている本堂の前面の舞台を、長い束( つか) 柱で支える懸( かけ) 造りの建築物である。(2級)
→(
No.2: 図1 は、長い束柱( つかばしら) を貫( ぬき) で固めた足代( あししろ) によって、急な崖の上に張り出した床を支える懸造( かけづくり) の建築物である。(R03)
→(

南部曲り家(なんぶまがりや)
岩手県

南部曲り家:岩手県の旧南部藩に生まれたため、この名称で呼ばれる。
平面形は、L字型をしており、母屋と馬屋が一体となっている。出入口は、そのL字の折れた中間部分になる。ドマ( 土間)、マヤ( 馬屋)、ダイドコロ( 台所)、ナンド( 寝室等に使われる)、ザシキ( 畳をもつ特別な部屋) などからなる。L字型の平面のために、馬屋が座敷から見えやすくなっている。
単純な直方形の平面を持つ民家は、一般に直家( すごや) と呼ばれる。

□出題例

No.1: 農家は、地方により架構や平面が異なり、東北地方の南部曲り家においては、馬を家の中で飼育できるようになっている。(H16)
→(
No.2: 岩手県下に多く見られた曲り屋造りとは、L字型の平面形状を有し、突出部は厩( うまや) で母屋( おもや) の土間とつながる民家形式の一つである。(R03)
→(

吉島家住宅(よしじまけじゅうたく)
1907年/岐阜県/重要文化財

飛騨高山の町家の代表作の一つ。
明治40 年に建てられた、代々酒造を家業とする商家。
外観は、竪格子の窓や、出格子等で構成。
通りから室内へは、「どーじ」と呼ばれる土間が連続している。
1階は、2層分が吹き抜けており、座敷などの各部屋は、簡易な間仕切りで仕切られている。
梁と柱による立体格子が、刻々と時間の変化とともに、自然光の細やかな陰影を映し出す。

□演習問題

No.1: 吉島家住宅の主屋は、通りから室内へは「どーじ」と呼ばれる土間が連続しており、1階は2層分が吹き抜けて、梁と小屋材が縦横にかかっている。
→(

茨城県営水戸六番池団地(いばらきけんえいみとろくばんいけだんち)
現代計画研究所 1976年/茨城県


3階建ての準接地型の住棟による90戸のタウンハウス。
七つの住棟に囲まれた共有の中庭を二つ持ち、築山や砂場などが設けられ、子供達の遊び場や住民のコミュニティの場になっている。住戸へのアプローチは、この中庭から屋外階段を使用する。
3階建ての住棟は、半階のスキップフロアの構成にもなっており、各階少しずつセットバックすることで、4畳半大のテラスを専用庭として設けている。
周辺の町並みとの調和のため、地元産の瓦なども使用した傾斜した瓦屋根を持つ。

□出題例

No.1: 茨城県営水戸六番池団地(茨城県)は、傾斜かわら屋根をもつ壁式鉄筋コンクリート造の低層集合住宅である。(S61)
→(
No.2: 茨城県営松代アパート(茨城県つくば市)は、七つの住棟により固まれた二つの中庭をもち、屋根葺材には地元で焼かれた瓦を使用する等、周辺との融和に配慮された地上3階建ての低層集合住宅である。(H28)
→(× 設問の記述は茨城県営水戸六番池団地の説明である。)
No.3: 茨城県営六番池アパート(水戸市)は、三つの住棟、集会室および中央広場で構成され、中央広場については、住戸又は集会室を介してアクセスする居住者専用のものである。(H30)
→(× 設問の記述は熊本県営保田窪第一団地の説明である。)

八幡浜市立日土小学校(やわたはましりつひづちしょうがっこう)
1956年/松村正恒/愛媛県/重要文化財

戦後の木造建築として、初の重要文化財指定を受けた改修改築された校舎を持つ木造モダニズム建築の小学校。
山間部の小川とミカン畑に面して建つ。
構造は木造主体であるが、鉄骨トラス梁や鉄筋ブレースを取り入れ、ハイブリッドな構造にもなっている。
校舎は3つの棟が連続して並ぶ。
東校舎の教室と廊下の間には、小さな中庭があり、教室の両側採光や換気が確保され、教室が廊下にぶどうの房のように取り付くクラスター型の教室の先駆的事例ともいわれる。
小川に面したファサードには、外部鉄骨階段やバルコニーが、張り出すことで豊かな表情を見せ、子供達のいろいろな居場所を作り出す。

□演習問題

No.1: 八幡浜(やわたはま)市立日土(ひづち)小学校は、クラスター型の教室の先駆的事例でもあり、部分的に鉄骨トラス梁や鉄筋ブレースを持つ木造のモダニズム建築である。
→(

まちとしょテラソ[小布施町立図書館](やわたはましりつひづちしょうがっこう)
2009年/古谷誠章+NASCA/長野県/構造:鉄骨造 地上1階

交流や情報発信の場としても計画された図書館。閲覧などのできる空間は、間仕切り壁を最小限に抑えて、大きな一室空間を実現している。
平面は三角形で、その中心に開架書架のブロックが配置され、3つの辺をなす外壁側には、3つの性質を持ったスペースが緩やかに分けられて、つくられている。それらは、子供が座り込んだりすることもできる絵本・紙芝居のコーナー、楕円テーブルなどで相談などもできるスペース、個人机で読書のできるスペースである。

□出題例

No.1: まちとしょテラソ[小布施町立図書館](長野県、2009年)は、間仕切りを必要最小限に抑えることで大空間を実現させ、三角形平面プランの中央に開架書庫を配置し、3つの辺に沿って緩やかに分けられたスペースがつくられている。(R04)
→(

海の博物館(うみのはくぶつかん)
1992年/内藤廣/三重県

海の博物館

漁で使用した漁船や漁具を保存・展示する博物館。研究棟と3つの収蔵庫、2つの展示棟からなる。
収蔵庫群は、風除室で連結され、展示棟は池の周囲の地形に沿って配置されている。最初に、重要有形民族文化財にも指定されている民具の収蔵庫から計画されている。収蔵品の保存環境が最適になるように、船など湿度が必要なものの展示にはたたきの土間、古文書・衣服類など乾燥が必要なものには杉板の仕上げ、また海に近いため、その塩害に対して耐候性のある瓦屋根の使用、コンクリートのアルカリ成分の影響を少なくするためにプレキャスト・コンクリートの使用など採用されている。展示棟は、壁面展示がほとんど無く、木造の大架構によって開放された展示空間となっている。

□出題例

No.1: No.1:海の博物館(三重県)は、プレキャストコンクリートや瓦屋根を採用する等、地域性を踏まえながら、性能、コスト、耐久性を検討し、「収蔵品のための空間」を実現している。(H14)
→(
No.2: 海の博物館(三重県鳥羽市)は、螺旋状の動線空間で構成された博物館であり、周囲の自然観察と展望
が可能な施設である。(H21)
→(× 螺旋状の動線を持つのは、潟博物館など。)
No.3: 海の博物館展示棟(三重県)は、主要構造部の柱や梁には、鋼材を内蔵した集成材を使用し、外壁にはガラスカーテンウォールと木製ルーバーを使用した建築物である。(R01)
→(×設問の記述のような特徴は持たない。)

犬島精錬所美術館(いぬじませいれんじょびじゅつかん)
2008年/三分一博志/岡山県

犬島精錬所美術館

開館時は、犬島アートプロジェクト「精錬所」として発表された。
瀬戸内海の犬島に残る銅精錬所の遺構や地形などを保存・再生した美術館。「遺産、建築、アート、環境」による新たな地域創造のモデルともされる。
機械による冷暖房ではなく、自然エネルギーを活用することが大きな特徴の一つ。夏期は、通路部分などの地中の冷たい熱を利用、冬期は、太陽熱を利用した温室的なギャラリーのエリアで、床の煉瓦などに暖かい熱を蓄熱して利用。精錬所の残された煙突内の空気の温度差を利用して、そうした熱や空気を施設内に循環させている。自然エネルギーの空気調整で室内環境の安定したホールなどには、現代アートの作品も展示されている。
また、トイレの汚水などは、敷地内の植物による水質浄化システムを採用している。

□出題例

No.1: 犬島精錬所美術館(岡山県)は、20世紀初頭に閉鎖された精錬所の遺構を活用し、自然エネルギーを積極的に利用した美術館として保存・再生させたものである。(H29)
→(

国立能楽堂(こくりつのうがくどう)
1983年/大江宏/東京都

国立能楽堂

能・狂言(能楽)の上演や、教育・普及活動も行われる国立の能楽堂。
能舞台の屋根は、檜皮葺き切妻屋根。建築全体は鉄筋コンクリートの構造体に、室内には造作として木造軸組構造を組み入れている。
周囲の住宅地の風景にも合わせるように屋根は複数に分割されている。

□出題例

No.1: 国立能楽堂(大江宏)は、鉄筋コンクリートの構造体に、室内には造作として木造軸組構造を組み入れている。
→(

世界平和記念聖堂(せかいへいわきねんせいどう)
1954年/丹下健/広島県/重要文化財

世界平和記念聖堂

戦後の世界平和の実現を願って献堂されたカトリック教会。平面は、中央の身廊の横に二つの側廊がある三廊式バシリカ形式であり、東方に向けて祭壇が置かれ、西洋ロマネスク建築に近い構成。西のファサードの近くに56m の鐘塔をもつ。内部壁面は白いプラスター、天井はヒノキの梁を露出させている。外壁面は、鉄筋コンクリート造のフレーム構造体に、破砕煉瓦を充填して積み重ねて、プラスターで仕上げている。

□出題例

No.1: 世界平和記念聖堂(広島県)は、村野藤吾設計の三廊式バシリカ形式で、西洋ロマネスク建築に近い構成をもち、鉄筋コンクリート造の構造体に破砕した煉瓦を充填している。
→(

東京カテドラル(とうきょうかてどらる)
1964年/丹下健三/東京都

東京カテドラル

カトリック教会の東京大司教区の教会堂。
(司教の座る椅子、司教座の置かれている教会堂をカテドラル、司教座聖堂(大聖堂)という。)全体の形態は、紡錘形の底面、頂点は十字形をなしている。
RCのHPシェルで大きな空間を覆っている。大部分の屋根、外壁はステンレス仕上げ、内部はコンクリートの打ち放し、頂部の十字形のトップライトから、光が打ち放しの仕上げの中を劇的に降り注ぐ。

□出題例

No.1: 東京カテドラルは、コンクリートによるHPシェル構造を採用している。(S60)
→(出題形式は建築物名とその特徴の正しい組合せを選択。)

広島環境局中工場(ひろしまかんきょうきょくなかこうじょう)
2004年/谷口吉生/広島県

広島環境局中工場

広島平和記念公園内の爆心地から広島平和記念資料館の公園に至る軸を、広島湾まで延長した軸線上にある清掃工場。
エコリアム(ECORIUM) と名付けられたガラスの通路が、市街地から海へと抜ける歩行者の通路として貫通している。さらに、エコリアムからの歩行者動線は、親水公園を通して、海への眺望へと開かれる。また、エコリアム(ECORIUM) からは、工場の中身が公開されて見学することもでき、清掃工場を通して、環境問題への意識が高められることが期待されている。

□演習問題

No.1: 広島環境局中工場(広島県)は、工場の中身が公開されているECORIUMと名付けられたガラスの通路が、海への眺望へと開かれている清掃工場である。
→(

直島ホール(なおしまほーる)
2015年/三分一博志/香川県

直島ホール

ホールと集会所と庭園からなる公共施設。ホールは、体育館や文楽の上演ができる舞台が設置されている。その大きな入母屋の屋根の頂部には、自然換気に利用されるような風穴が空いており、直島の卓越風を利用した風力換気や、ホールの1階の開口部から外気を取り入れて、頂部の風穴から空気を排出する温度差換気を促進している。集会所は、寄棟の大屋根が二重のルーバーで構成されており、その屋根の下には4つの室空間が入れ子状に配置されている。

□演習問題

No.1: 直島ホール(香川県)は、ホールと集会所と庭園からなり、ホールの大きな入母屋の屋根の頂部には風穴が空いており、自然換気を促進している。
→(

みんなの森 ぎふメディアコスモス
2015年/伊東豊雄/岐阜県

ぎふメディアコスモス

図書館機能を中心とした市街地の複合文化施設。
1階は市民活動交流センター、多文化交流プラザ、展示ギャラリー、多目的ホール、閉架書庫など、2階は全体をワンルーム空間とした市立中央図書館の開架閲覧室としている。開架閲覧室には、天井から吊り下げられた半透明のカサ状の「グローブ」が、さまざまな領域を作り出している。
屋根は、幅1200 ㎜、厚さ200 ㎜の檜材を三角形の格子状に積層させて構成し、グローブ上部は起伏を持って、周囲の山並みの風景に合わせている。

□出題例

No.1: ぎふメディアコスモス(岐阜県、2015年)は、木造格子屋根をもつ市立中央図書館や、市民活動交流センター、多文化交流プラザ及び展示ギャラリー等からなる複合施設である。(R02)
→(

旧開智学校校舎(きゅうかいちがっこうこうしゃ)
1876年/立石清重/長野県/国宝

旧開智学校校舎

文明開化の時代、伝統的な和風に新しい洋風のスタイルを擬えた(なぞらえた)擬洋風建築の代表的作品。
明治初期の小学校は、寺のお堂などを使用していたが、教育熱心だった当時の長野県知事の命を受けて棟梁の立石清重(せいじゅう)が設計施工した。棟梁は東京へ赴き、東京等で先行する洋風の建築を研究し、工夫を重ねた。
瓦葺き屋根、木造下地の漆喰壁だが、建築の四隅の部分をコーナーストーン(隅石)風に仕上げて、屋根に突き出た八角形の塔にはアーチの窓を使用するなどの洋風の意匠にしながら、正面中央の車寄せでは、唐破風や龍や雲の彫刻といった伝統的な和風の意匠、さらにはエンゼルの彫刻が混在するなどの独創性を持った外観を見せる。
また舶来の色ガラス製品などの「ギヤマン」も使用されており、「ギヤマン校舎」とも呼ばれていたという。開智学校は、「智を開き才芸を長する」という学制(日本最初の学校制度を定めた教育法令)の序文から名づけられた。当時の県内の学校のシンボルであり、その後の小学校建築に多大な影響を与えた。

□出題例

No.1: 旧開智学校校舎(明治時代)は、アーチや隅石等の洋風の意匠と唐破風等の和風の意匠が混在した擬洋風の建築物である。(R02)
→(

帝国ホテル旧館(ていこくほてるきゅうかん)
1923年/フランク・ロイド・ライト/愛知県

帝国ホテル旧館

帝国ホテルは、明治の時代に外国の賓客を迎えることのできる格式と設備などのあるホテルとして開業した。フランク・ロイド・ライト設計の旧本館は、落成披露式当日の1923 年(大正12 年)9月1日に関東大震災に襲われたが、倒壊をまぬがれた。
主な構造である鉄筋コンクリート造の造形性を活かして、大谷石やテラコッタの幾何学的な彫刻、表面をひっかいたスクラッチ模様レンガ(タイル) が、内外の仕上げで使用されている。
翼を広げたような対称形の平面であり、その中心軸に、客室のエントランス、大食堂、厨房、宴会場、レストラン、オーディトリアムなどが位置する。両翼部分には、客室棟が、中廊下方式で、直線上に配置されていた。客室・エントランス部分と、宴会場バンケットホール・レストラン、オーディトリアム部分は、明確に分離され、それぞれ独自のエントランスを持つ。
現在は、エントランス・玄関部分のみが博物館明治村に移築・保存されている。

□演習問題

No.1: 帝国ホテル旧館(F.L.ライト)は、大谷石などの幾何学的な彫刻、スクラッチ模様レンガの装飾的な仕上げが特徴であり、対称形の平面の中心軸に客室のエントランスや宴会場が位置し、両翼部分には客室棟が配置されていた。
→(

アートプラザ
1998年/磯崎新/大分県

アートプラザ

1966年に竣工した大分県図書館を改装した複合文化施設。
1階は市民ギャラリー、2階はアートホールや研修室、3階は磯崎新の建築作品の模型や資料が常設展示されている。
旧図書館は、老朽化などによって取り壊しも予定されていたが、保存運動などによって大分市が県から譲り受けて、文化情報の場「アートプラザ」として活用、再生を図ることになった。
打ち放しコンクリートの質感や、壁から突き出した正方形断面の中空梁などが、意匠的な特徴。この中空梁は、構造体であると同時に、内部では空調ダクトの機能を持っている。

□出題例

No.1: アートプラザ(大分市)は、大分県立図書館を展示施設に転用したものである。(H19)
→(
No.2: アートプラザ(大分市)は、図書館をギャラリー等からなる芸術文化の複合施設にしたものである。(H25)
→(

コルドバの大モスク
785年/スペイン、コルドバ/世界遺産

コルドバの大モスク

多柱式の礼拝堂として創建されたが、後にキリスト教の礼拝堂が内部に建築され、キリスト教とイスラム教の空間が共存しているモスク。
内部には、500 本を超える円柱が、あたかも柱の森のように林立しているが、それらは古代ローマ時代の建築の柱を転用しており、さまざまな種類がある。柱は、白い石と赤い煉瓦の紅白縞文様で形成される2段のアーチの構造で、木造の天井を支持している。
8世紀後半の創建時から拡張され、大規模なモスクとなったが、キリスト教社会に征服された13 世紀から、キリスト教の聖堂に転用された。
16 世紀には、中央部分が改築され、ゴシック的なキリスト教の礼拝堂が大規模な平面に入り込む形で建設された。
メスキータ( スペイン語で「モスク」の意) と紹介されることも多い。

□出題例

No.1: コルドバの大モスク(スペイン)は、紅白縞文様の2段アーチを伴って林立する柱による内部空間をもち、現在はキリスト教文化とイスラム教文化が混在している建築物である。(H28)(R01)
→(

ル・トロネ修道院
1200年頃/フランス、プロヴァンス地方

ル・トロネ修道院

南仏のプロヴァンス地方の森の中に位置する。俗世間から離れて神へ奉仕する修道士達の生活の場。
教会堂、寝室、集会室、中庭を囲む回廊などからなる。
ロマネスクの様式には、聖書の物語を語るような柱頭の彫刻や天井画が葬礼に彩られているものが多い。しかし、この修道院からは装飾は排除され、粗い石が積みあげられているだけである。いわば、最小限の要素で、建築が構成されており、その厚い壁を通り抜ける光と、石の空間を反射する音が、この建築を造形している。ル・コルビュジエが、ラ・トゥーレット修道院の設計に際して、何度も訪れて参考にしたと言われ、しばしば今日の装飾性のない建築の範例にもなるとも評されている。

□出題例

No.1: A.ローマのテンピエット(イタリア)、B.ル・トロネ修道院(フランス)、C.ローマのパンテオン(イタリア)、D.ロンドンのセント・ポール大聖堂(イギリス)について、その建造された年代を古いものから新しいものへ並べるとC → B → A → Dである。(H29改)
→(出題形式は建築物名の年代順)

サント・シャペル
1248年/フランス、パリ/世界遺産

サント・シャペル

セーヌ川のシテ島の、王宮の付属礼拝堂としてつくられた。ゴシック様式の教会堂。(現在、王宮はなく裁判所に囲まれている。)
上層と下層に礼拝堂を持つ。上層礼拝堂は、控え壁が構造の主体となっているが、室内から見ると、その構造の壁は細い付け柱で隠されており、いわば鳥かごのような骨組みの構造になっている。壁のほとんどは、高さ15mにも及ぶステンドグラス面やバラ窓( 円形の窓) で構成され、室内を光で満たす。
さながらステンドグラスの宝石箱ともいわれる。

□演習問題

No.1: サント・シャペル(フランス)の上層礼拝堂は、主体構造の控え壁が、細い付け柱の仕上げで隠されており、鳥かごのような骨組みの構造をもち、ステンドグラスの光で満たされたゴシック様式の教会堂である。
→()

カンピドリオの丘
1536年頃/ミケランジェロ/イタリア、ローマ

カンピドリオの丘

古代ローマ時代の七丘の一つであるカンピドリオの丘にあり、ミケランジェロが再建した広場。最も高いレベルにあり、政治的な中心で神聖な丘であったが、ローマ帝国の崩壊以降、破壊されていた。
大階段からの長い軸線に対して、台形の広場、三つのパラッツォ(大きな公共建築や宮殿、大邸宅など)が配置されている。こうした強調された軸線や、台形の広場の舗装の模様がルネサンスに多用された円ではなく、楕円となっていることなどが、後のバロック広場の初期を予見させる。広場に面した建物のファサードには、「大オーダー」と呼ばれる2層分の高さのピラスター(付け柱)も見ることができる。

□出題例

No.1: ローマのカンピドリオ広場(イタリア、16世紀)は、ミケランジェロの計画による、台形状の広場とアプローチとしての大階段、三つのパラッツォを対称的に配置することで、軸線を強調した、バロック的な広場計画の初期の事例である。(R03)
→(

サン・カルロ・アッレ・クァットロ・フォンターネ聖堂
1638年起工/ボッロミーニ/イタリア、ローマ

サン・カルロ・アッレ・クァットロ・フォンターネ聖堂
サン・カルロ・アッレ・クァットロ・フォンターネ聖堂

ファサードは大きく上下2層に分かれ、上は凹凸凹、下は凹凹凹のうねるような曲面で構成されている。聖堂の平面は、楕円をさらにつぶしたような菱形であり、楕円形のドームから光が注がれる。ドームの内部は、六角形、八角形、十字形の組合せの格天井。建築それ自体が、彫刻的な曲面でダイナミックな空間を形成している。

□出題例

No.1: サン・カルロ・アッレ・クァットロ・フォンターネ聖堂(イタリア)は、楕円形のドームと、凹凸の湾曲面や曲線が使用されたファサードをもつバロック建築である。(R01)
→(

パリ・旧オペラ座
1874年/シャルル・ガルニエ/フランス、パリ

パリ・旧オペラ座
パリ・旧オペラ座

オースマンのパリ大改造によるオペラ通りに沿った見通し( ヴィスタ)の終点に位置する劇場。建築面積11,360 ㎡に対して余裕のある座席数2,158 席と広い舞台(55 m× 55 m ) を持つ。ホワイエと大階段室の壮麗な空間は、観客達自身もきらびやかに輝く舞台装置でもある。
この当時、ナポレオン3世の好みにより作られたネオ・バロック建築は「スゴンタンピール(第二帝政様式)」と呼ばれている。

□出題例

No.1: パリの旧オペラ座は、オースマンのパリ大改造によるオペラ通りに沿った見通し(ヴィスタ)の終点に位置する劇場であり、壮麗なホワイエと大階段室などをもつネオ・ゴシックの建築である。
→(×パリの旧オペラ座は、ネオ・バロック建築である。)

タッセル邸
1893年/V.オルタ/ベルギー、ブリュッセル/世界遺産

ブリュッセルの街並みを形成する都市型住宅で、最初のアール・ヌーヴォー建築とも呼ばれる。室内は自由な曲線模様や曲面で形成されている。特に階段室は、植物の茎などをモチーフとしたような曲線が描かれ、モザイク装飾等がある。鉄を構造に使った最初期の建築でもあり、鉄の構造と装飾は一体となって流動的な空間を形成する。
アール・ヌーヴォー:自然界に存在しない直線は使用せず、植物の茎や葉、長い髪の様な曲線や曲面が多用されたデザインの様式。
仏語を直訳すると、アール( 芸術)、ヌーヴォー( 新しい)。

□出題例

No.1: タッセル邸は、アール・ヌーヴォーの建築である。(H22)
→(出題形式は作品名と建築様式の組合せ)
No.2: タッセル邸は、アール・デコの建築である。(H25)
→(× 出題形式は作品名と建築様式の組合せ)
No.3: タッセル邸(ベルギー、1893年)は、植物の茎や葉、長い髪などの自然物をモチーフとした非対称な曲線や曲面を造形に用いたアール・ヌーヴォーを背景としている。(R02)
→( )

ヒル・ハウス
1904年/C.R.マッキントッシュ/イギリス、グラスゴー/構造:石造3階建

スコットランド、グラスゴーの近郊の小高い丘に位置する独立住宅。
外観は、伝統的なスコットランドの住宅の様式を受けつぎ、荒くモルタルで仕上げられた外壁に急勾配屋根を持つ。内部は、建築の造作から家具、室内の装飾、照明器具まで総合的にデザインされている。アーツ・アンド・クラフツ運動やゼツェッシオン、アール・ヌーヴォーの影響のもと、優美で繊細な曲線でデザインされ、さらに日本美術の格子的なデザインの影響も指摘されている。
建築家のC.R. マッキントッシュの代表作には、グラスゴー美術学校(1899、1909)、ラダーバックチェア(背もたれが高く、はしご(ラダー)状なっているヒルハウスのためにつくられたチェア)等がある。

□演習問題

No.1: ヒル・ハウス(C.R.マッキントッシュ)は、伝統的なスコットランドの住宅の外観に、アーツ・アンド・クラフツやアール・ヌーヴォーの影響を受けたインテリアを持ち、家具や照明器具といった室内装飾が総合的にデザインされた独立住宅である
→(

テューゲントハット邸
1930年/ミース・ファン・デル・ローエ/チェコ、ブルノ/構造:S造3階建/世界遺産

テューゲントハット邸

傾斜地に建つ独立住宅。3階建てで、1階は地下室、2階は主要階、3階はアプローチ階になっている。2階は、オープンなリビング・エリアとキッチンや使用人室のエリアに分かれ、非構造のフリーな間仕切り壁が、リビングやダイニングの領域をつくっている。2階の庭に面した全面窓の部分は、電動式で床下に格納され、庭やブルノの街の眺望を楽しむことができる。

□演習問題

No.1: テューゲントハット邸(ミース・ファン・デル・ローエ)は、街の眺望を楽しむことができるような傾斜面に建ち、主要な階では、間仕切り壁がリビングやダイニングの領域をつくり、庭に面して床から天井まで全面のガラス張りとなっている。
→(

サヴォア邸
1931年/ル・コルビュジエ/フランス、パリ近郊/世界遺産

サヴォア邸
サヴォア邸

20 世紀の住宅の中で、最も語られることの多い作品の1つ。
特に、コルビュジエが提唱した以下の概念で説明されることが多い。
ドミノ型住宅※1をよく具体化している。構造壁がないことで、その部屋の間仕切りの自由度が高まり、曲面壁も使われていること。
近代建築の5原則※2をよく具体化している。
例えば、

外観上は、白い四角い箱が、あたかもピロティの細い柱の上に、浮かんで見えるような表現になっていること。( 1階は車寄せにもなっている。)
屋上庭園として、2階と3階の屋上部分が、屋根のない部屋のようにもつくられていること。

また「建築的散策路( 建築的プロムナード)」とも呼ばれる動線の作り方も、しばしば設計の方法として語られる。スロープが上下階を移動する中心となっており、歩いて進むにつれて風景は移り変わっていく。

※1 ドミノ型住宅 (メゾン・ドミノ、ドミノ・システムによる住宅)ドミノ・システムは、柱と床、階段によって構成されるフレームの構造ユニットであり、それらを組み合わせることで、集合住宅や街区を計画する提案であった。当時は、壁構造が主流であり、平面の自由度が低かったという背景がある。
※2 近代建築の5原則 (新しい建築のための5つの要点)
「ピロティ」「屋上庭園」「自由な平面」
「水平連続窓」「自由な立面( ファサード)」

□出題例

No.1: ル・コルビュジエは、「近代建築の5原則」として、ピロティ、屋上庭園、自由な平面、水平連続窓、自由なファサードを提示し、この原則を具現させた作品は、「サヴォア邸」である。(H1)(H14)(H20)(H25)
→(

□演習問題

No.2: コルビュジエのドミノ型住宅は、骨組を柱と床と階段により構成する構造方式で、平面計画の自由度が高い。(H10)
→(

カップ・マルタンの休暇小屋
1931年/ル・コルビュジエ/フランス/世界遺産

カップ・マルタンの休暇小屋
カップ・マルタンの休暇小屋

地中海に面して建てられたル・コルビュジエの別荘( 図A)。一辺が 3.66 m正方形の平面( 約8畳) という極小の居住空間であり、ル・コルビュジエによる寸法体系モジュロールによって、天井高など計画されている。造り付けの家具類、2つのベット、机、キャビネット、トイレ、洗面台等によって部屋が構成されている。外壁はベニア板に丸太を貼った仕上げで、屋根は波形スレート葺き。周囲には、以下の建築がある。

食堂「ひとで軒」:休暇小屋にはキッチンはなく、ル・コルビュジエは、隣接しているこの食堂で食事をとった( 図B)。
ユニテ・ド・キャンピング:キャンプ客用の5つの部屋を持つ長屋( 図C)。
仕事部屋:工事現場用小屋を転用したル・コルビュジエのアトリエ

ガラスの家
1950年/フィリップ・ジョンソン/アメリカ、コネティカット

ガラスの家

林の中に建つ建築家自身の週末住宅。
鉄のフレームやガラス壁の使用によるワンルーム空間の住宅。
広大な敷地には、寝室( ブリック・ハウス) や、絵画ギャラリー、彫刻ギャラリー、水上パビリオンなどがある。
普遍的なユニバーサル・スペースで知られるファンズワース邸からの影響が認められるが、地上から浮いた床はなく、この住宅は、その土地の固有の回答を示している。家具によって居間や食堂、寝室などの領域がつくられているが、レンガ仕上げの円筒におさめられた浴室やトイレなどの水回りのコアが、屋根の水平ラインを貫通し、明確な平面を構成している。

□出題例

No.1: ガラスの家(フィリップ・ジョンソン)は、広大な敷地の中に立つ別荘で、暖炉とコアによる明快な平面構成をもつ。(H11)
→(
No.2: ガラスの家(フィリップ・ジョンソン、アメリカ)は、南北全面を半透明のガラスブロック壁とし、間仕切り壁にガラスやパンチングメタルを使うことで、内部まで明るい一塊の空間とした住宅である。(R05)
→(× 設問の記述は、ダルザス邸(ピエール・シャロー、フランス)である。)

ファンズワース邸
1950年/ミース・ファン・デル・ローエ/アメリカ、イリノイ

ファンズワース邸

川沿いの広い林の中に建てられた週末住宅。
川のほとりにあり、定期的に水没する可能性もあり、建築の床は、1.5 mほど持ち上げられている。床スラブと屋根スラブを構成する鉄骨の梁に外付けに8 本のH 形鋼の柱が溶接されている。外壁は、白く塗られた柱の部分以外はガラスの壁。室内に柱はなく、水回りやキッチン等が中央に集まった、センターコア・タイプで、その周囲を回遊できるようなワンルーム的な広がりがある空間となっている。家具類によって、その生活の領域がつくられる。こうしてフレキシビリティが高く、機能を限定しないような空間はユニバーサル・スペースとも呼ばれる。

□出題例

No.1: ファンズワース邸(ミース・ファン・デル・ローエ)は、コンクリートによる構造の特徴を生かした、ユニバーサル空間をもつ。(H1)(H11)
→(×鉄とガラスによる単純明快な構成の住宅である。)
No.2: ファンズワース邸(ミース・ファン・デル・ローエ)は、広大な敷地に建つ週末住宅であり、H形鋼の柱に溶接された梁を介して屋根スラブ及び床スラブを取り付けた構造に特徴がある。(H29)
→(

旧モントリオール万国博覧会 アメリカ館
1967年/バックミンスター・フラー/カナダ、モントリオール

旧モントリオール万国博覧会 アメリカ館

R . バックミンスター・フラーは、数学者、エンジニア、思想家、建築家など多彩な顔をもつ。ダイマキシオン(Dynamic Maximum Effi ciency=ダイナミックで最大限の効果を出す) の考えを元に、ダイマキシオン・カー、ダイマキシオン・ハウス等を発表した。ダイマキシオンの考え方が、ドーム構造に展開されたのがジオデシック・ドーム(フラードーム)である。球面上の三角形を基本単位とする網目状で、曲面上の2点の間の最短曲線であるジオデシック・ライン( 測地線) を利用している。最小の資源で最大のパフォーマンスを追求するようなダイマキシオンの考えとして、このドームは最小の表面積で最大の空間をつくり、軽量で強い構造を持っており、空間を囲い込む効率の優れた手段ともされる。
1967 旧モントリオール万国博覧会 アメリカ館(現モントリオール・バイオスフィア)
直径約76 mのジオデシック・ドームからなるアメリカ館パビリオン。3/4 の球の外形を持ち、透明なアクリルパネル、三角形の遮蔽用のアルミ膜が取り付けられていた。内部には、展示用のプラットフォームが積み重なり、エレベーターや大きなエスカレーターで、最上階8階へと行くことができ、モノレールの軌道も貫通していた。

□出題例

No.1: バックミンスター・フラーによる「ジオデシック・ドーム」は、地球上の都市域が連担し地球全体が都市のネットワークによって覆われるという世界都市を示す概念の提案である。(H25)
→(× 設問の記述にあるような世界都市の概念には、C.A.ドクシアディスの提唱によるエ
キュメノポリスがある。)

ウィーン郵便貯金局
1906~12年/オットー・ヴァグナー/オーストリア、ウィーン

ウィーン郵便貯金局

建築家オットー・ヴァグナー(Otto Wagner) の代表作の一つ。内部の出納ホール( 窓口ホール) は、二重のガラスの天井、ガラスブロックの床で構成され、自然光は拡散してホールを明るく浮かび上がらせている。外壁を支持する金具を意匠としてみせるなど、構造の表現が装飾化しており、世紀末的な装飾の影響をぬけて、近代建築の方向を示す作品といわれる。
オットー・ヴァグナーは、19 世紀末ウィーンで、過去の様式などから決別し、分離する意味で「分離派」とも訳される芸術家のグループ、ウィーン分離派(ゼツェッシオン)に参加していた。
そして「芸術は必要にのみ従う」、「実用的でないものは美しくはあり得ない」をモットーに、合理的な構造や材料の使用を示唆するような必要様式という近代の機能主義的な考えを先駆けて示した。

□出題例

No.1: ウィーン郵便貯金局(オーストリア、1906年)は、ゼツェッシオンに参加したオットー・ヴァグナー(Otto Wagner)が設計した建築である。(H27)
→(
No.2: アドルフ・ロースは、「必要様式」という考え方を提示し、機能主義・合理主義の設計理論の先駆者とされており、代表的な作品に「ウィーン郵便貯金局」がある。(H20)
→(× 設問の記述は、オットー・ヴァグナーについての説明である。)
No.3: ウィーン郵便貯金局(オーストリア、1906年)は、機械生産に
よる低品質な製品を否定し、工業化社会における芸術性を中世的な手工芸に求めたアツ・アンド・クラフツ運動を背景としている。(R02)
→(× アーツ・アンド・クラフツ運動を背景としていない。)

ロンシャン礼拝堂
1955年/ル・コルビュジエ/フランス、ロンシャン/世界遺産

ロンシャン礼拝堂
ロンシャン礼拝堂

アルザス地方の丘の上に建つ礼拝堂。見る位置によって、自由な造形のシルエットが、周囲の風景を新しくみせる。屋根は、打放しの中空のコンクリート。蟹の殻がヒントになっているという。
内部は、中心となる礼拝堂と、他に3つの小さな礼拝堂を持つ。小礼拝堂はそれぞれが採光のための塔を持っている。外壁には、ランダムな位置と大きさに開けられた開口部がある。コルビュジエが絵を描いた色ガラス等がはめ込まれており、礼拝堂はさまざまな種類の光で満たされる。

□出題例

No.1: ロンシャン礼拝堂(ル・コルビュジエ)は、ロマネスクの修道院のように中庭を回廊が取り囲む平面であり、その中庭は十字形の回廊や、四角錐、直方体等のさまざま彫刻的な形態で構成されている。
→(× 設問の記述は、ラ・トゥーレット修道院である。)

TWAターミナルビル
1962年/エーロ・サーリネン/アメリカ、NY

TWAターミナルビル

ニューヨークの国際空港の一つ、ジョン.F. ケネディ空港の旧第5ターミナルビルで、旧トランス・ワールド・エア(TW航空)のターミナルビル。
屋根の架構に、4 枚の鉄筋コンクリート造のシェルが使用され、それらが4 本のY 字柱脚に支えられることで、全体が長さ約105 m・高さ約17 mの大空間を実現している。彫刻的なコンクリートの使い方で、床・壁・天井が一体となって三次元曲面となっている。今、まさに飛び立たんとする翼のような形態ともいわれ、構造自体をデザインとして見せる構造表現主義とも位置づけられる。ターミナル機能は2001 年に閉鎖され、TW 航空の1960 年代文化のギャラリーやTWAホテルとして再利用されている。

□出題例

No.1: ケネディ空港TWAターミナルは、ルイス・カーンによって設計されたプレキャストコンクリートのシェル構造によるターミナルで、コンクリートの可塑性を生かしたドラマティックな空間が特徴であ
る。(H14)
→(× 設計者はエーロ・サーリネンである。シェルは、プレキャストコンクリートではない。)
No.2: ジョンF.ケネディ国際空港 TWAターミナルビル(ニューヨーク、E.サーリネン、1962年)は、長さ約105mの屋根は、4本のY字柱脚に支えられた4枚の鉄筋コンクリート造によるシェルで構成されている。(R04)
→(

ドイツ連邦議会議事堂(ライヒスターク)
1999年/ノーマン・フォスター/ドイツ、ベルリン

ドイツ連邦議会議事堂

ドイツ・ネオバロック様式の旧帝国議会議事堂(1894 年) を改修した建築である。
新しくガラスのドームが設けられ、内部は二重螺旋のスロープにより展望施設にもなっている。また、下階にある議場を見ることができるギャラリーでもある。

□演習問題

No.1: ライヒスターク(ドイツ)は、博物館の中庭に設けられていた図書館機能を外部に移設させ、パブリックスペースとして館内の動線をスムーズにした、ガラス屋根の架かった施設である。
→(× 設問は、大英博物館のグレートコート(イギリス)である。)

テイト・モダン
2000年/ヘルツォーク&ド・ムーロン/イギリス、ロンドン

テイト・モダン

テムズ川沿いの火力発電所を改修したモダンアートの美術館。
産業革命の象徴である火力発電所の重厚な煉瓦の仕上げや、煙突がシンボリックに保存されている。エントランスは、5層吹き抜けの大ホール(タービン・ホール)で、さまざまなイベントやアートのインスタレーションが展示されている。最上階はガラスの壁で囲まれたレストランなどが入り、重厚な煉瓦造に対して、浮き上がるような光のヴォリュームにみせている。
2016 年に、新館( スイッチハウス) が増築された。レンガの外壁は隙間があり、昼は自然光、夜は室内の光が、ねじれた形状の建物を包む。

□出題例

No.1: ロンドンのテイト・モダンは、煉瓦(れんが)造の証券取引所を、美術館にしたものである(H16)
→(× 証券取引所でなく火力発電所である。)
No.2: テイト・モダン(ロンドン)は、第二次世界大戦後の復興時に建設された煉瓦造の火力発電所を、エントランスホールを兼ねた5層吹抜けの巨大な展示空間をもつ美術館に転用したものである(H19)(H24)
→(

ハイライン
2006年~/フレンズ・オブ・ハイライン 他/アメリカ、NY

ハイライン
ハイライン

マンハッタンのウェストサイドの廃線になった高架貨物線の跡地を再利用した遊歩道のような空中公園。
1980 年以降、廃線となった高架は放置され、取り壊しの手続きが進んでいたが、1999 年に設立されたNPO 団体フレンズ・オブ・ザ・ハイラインの活動によって公園に転用された。
さまざまな人の活動の場所が用意され、200 種類以上の草花や樹木が植栽されている。ハドソン川の眺望が楽しめるように計画されたサンデッキ、街を見渡す階段状の客席がある広場などが設けられている。

□出題例

No.1: ハイライン(ニューヨーク市)は、1980年に廃道となった高速道路を、路面上は緑道、高架下は大規模なショッピングモールへ再生させたものである。(H27)
→(× 廃道となった高速道路の高架下を大規模なショッピングモールへ再生していない。)
No.2: ハイライン(ニューヨーク)は、廃線になった貨物専用の高架線跡を再利用し、緑豊かな展望公園へと再生させたものである。(R01)
→(
No.3: ハイライン(New York、アメリカ)は、建築物の高密化と老朽化に伴いスラム化した市街地において、建築物を減築し、病院を図書館へ改築するなどの文化施設の整備により都市再生が行われた。(R04)
→(× 設問のような都市再生は行われていない。)

近隣住区論(きんりんじゅうくろん)
1929年/クラレンス・アーサー・ペリー/アメリカ

近隣住区論

原題「The Neighborhood Unit」
住宅地やニュータウンを計画する際の基礎的な理論の一つ。
1923 年に概要が発表されて、1929 年に出版された。
6つの原則(指針)からなり、主な内容は以下のとおり。
1.規模:人口は小学校一校に対応。8,000~10,000人。
2.住区界:住区は、幹線道路に囲まれる。
3.空地:公園、緑地などを設ける。
4.公共施設:住区の中央に小学校などの公共施設をまとめる。
5.商業施設:商店は住区の周辺、できれば交通の接点に設ける。
6.住区内道路:通過交通を防ぐ。
アメリカのラドバーン、イギリスのハーロウニュータウン、日本の千里ニュータウンなどに状況に合わせて適用されていった。特にイギリスなどでは田園都市計画の技術的な面
を補完するような理論として扱われてきたともいわれる。
しかしまた、近隣住区の規模が適切かどうか、閉鎖的コミュニティになっていないか、などが論議にもなった。

□出題例

No.1: クラレンス・アーサー・ペリー(Clarence Arthur Perry)は、 「近隣住区」理論を唱えた。(S62)
→( 出題形式は都市計画名と計画者の組合せ)
No.2: 図は、C . A . ペリー(C.A.Perry)によって提唱された都市計画モデルである。(H04)
→( 出題形式は都市計画モデル図と計画者の組合せ)
No.3: 近隣住区は、学校、店舗、公園等の日常生活に必要なコミュニティ施設を備え、一般に、小学校が一校成立する程度の人口を単位としたものである。(H16)(H24)
→(

錯乱ののニューヨーク
1978年/レム・コールハース

錯乱ののニューヨーク

原題:「Delirious New York」
そのタイトルが示すように、錯乱するかのごとくに多重にニューヨークを描き出す都市・建築論である。
副題が「マンハッタンのための回顧的なマニュフェスト」である本書では、この都市の発生し発展していく過程に合わせながら、新しい文化の実験室としてのマンハッタンを描く。空想世界のテクノロジーの「コニーアイランド」や、建築の突然変異「摩天楼」、ユートピアの断片の「ロックフェラー・センター」、コルビュジエとダリ、そして著者による一連の建築プロジェクトなど、マンハッタンの摩天楼群や先端的な社会状況が生み出したメトロポリス的なアーバニズムが「過密の文化」であり、二十世紀文化そのものではないかと論じられる。
そうした、ありとあらゆる水準での過密の創造を原理とするのが「マンハッタニズム」であり、それは、建築と文化のエピソード群の立場が非連続的にくいちがったままに内包するようなアーバニズム理論である。

□出題例

No.1: レム・コールハースは、「錯乱のニューヨーク(Delirious New York)」において、主としてマンハッタンの超高層建築物がつくりだした「過密の文化」に着目し、「マンハッタニズム」と定義した。(H29)
→(

ポツダム広場再開発
1989年~/ドイツ、ベルリン

ポツダム広場再開発

1989 年のベルリンの壁の崩壊以降に、ポツダム広場周辺を開発する大規模なプロジェクト。
20 世紀初頭のポツダム広場は、ヨーロッパでも最も交通量の多い交差点でもあり、商業・文化的に繁栄していたベルリンの中心であった。しかし、第二次世界大戦以降、ポツダム広場は、東西ドイツ分断の境界線上となり更地化が進められ、さらにベルリンの壁が建設されることによって、周囲は無人化され放置された土地になっていた。
1989 年にベルリンの壁崩壊以降、東西ドイツの統一後に開発が始まり、複数の街区からなるダイムラー・シティや、大規模な楕円のガラス屋根に覆われたソニー・センター等に、オフィスや劇場・映画館等の文化施設、集合住宅、ホテル等が複合的に開発されている。

□出題例

No.1: ベルリンのポツダム広場再開発計画は、第二次世界大戦とその後の東西分断によって長年更地であった敷地に複合機能をもたせたプロジェクトである。(H27)(R01)
→(

ニューカッスルゲイツヘッド
1980年~/イギリス、ニューカッスル・アポン・タイン、ゲイツヘッド

ニューカッスルゲイツヘッド

川を挟んで隣接するニューカッスル・アポン・タインとゲイツヘッドが協力して、アートと文化による創造都市を目指すような、文化牽引型の都市の再生事例。
両都市は、17 世紀以降は炭鉱業、産業革命以降は製鉄・造船などで発展してきたが、20 世紀になり産業は衰退していった。そこで、文化施設やアート作品などを整備し、さらに、そうした作品の制作の過程に市民参加のプログラムを組んだり、川沿いの景観を楽しめるポイントを整備するなど、文化的な体験を都市再生に活用してきている。

エンジェル・オブ・ノース「北の天使」(1998年)ワークショップも行いながら巨大な彫刻を設置。
ゲイツヘッド・ミレニアム・ブリッジ(2001年):歩行者、自転車用の橋。
バルティック現代芸術センター(2002年):製粉工場の外壁を残して、現代アートの美術館に再生。
セージ・ゲイツヘッド(2004年):設計ノーマン・フォスター:3つのホールを3次元曲面のガラスで覆っている。

□出題例

No.1: イギリスのニューカッスルゲイツヘッドは、アートと文化による創造都市を目指すような、文化牽引型の都市の再生のプロジェクトである。
→(

都城(とじょう)

都城

都城:「条坊都市」 とも呼ばれる。古代の中国の都市に影響を受けて、中国の長安などをモデルにして造られた格子状・グリッド状の都市。
その特徴は、

条坊制:東西方向の道路「条」と南北方向の道路「坊」が格子状に配置、
北部中央に、天皇が居住し政務、儀式・行事などが行われる大内裏( だいだいり) のような中心的な施設が配置、
朱雀大路のような幅の広い南北道路が中心に通る

などが挙げられる。

長安新益京(あらましのみやこ)(藤原京)(694年~710年)条坊性による初めての首都。
平城京(710 年?784 年)奈良盆地の北部に位置した。古代中国の長安城がモデルの一つとされている。
東西約4.3 ㎞、南北約4.8 ㎞の矩形部分を基本とし、東部の北と北部の西に拡張されている。
北部中央に大内裏( 平城宮) が位置し、幅約75 mの南北の道路である朱雀大路を中心軸として、北部の大内裏から向かって左を左京、右を右京に分けている。
道路と敷地は真々制のグリッドで構成されており、先に決めた正方形グリッドに道路を合わせて、その道路幅を抜いた部分を四角形の敷地にしている。条坊の中には、西大寺や薬師寺などが、東の外側に東大寺などの寺院が営まれていた。

長岡京(784 年~794 年)一部の道路と敷地は真々制のグリッドで構成され、それまでの条坊制を展開した。

平安京(794 年)南北5.3 ㎞、東西4.5 ㎞の長方形の平面であり、幅82 mの南北の道路である朱雀大路( すざくおおじ) を大きな中心軸として、平城京とほぼ同じ敷地の構成。最小の街区単位である40丈(400 尺) 四方の「町」に、大路や小路といった道路を足した「内法制」で構成されていた。

□出題例

No.1: 平安京では、長方形の平面に対し、南北を通る朱雀大路を中心に右京と左京に分かれ、条( 東西道路) と坊( 南北道路) による格子の街路網をもつ条坊制が敷かれた。(R04)
→(

□演習問題

No.1: 平城京では、北部中央に大内裏( 平城宮) が位置し、南北の道路である朱雀大路を中心軸として、道路と敷地は内法制のグリッドで構成されている。。
→(× 平城京の道路と敷地は真々制のグリッドで構成されている。)

帝都復興事業(ていとふっこうじぎょう)
1923年~/後藤新平、佐野利器、他

帝都復興事業

1923 年9 月1 日、関東大震災によって東京旧区部の約半分近くは焼け野原と化し、死者・行方不明者は約10 万5千人であった。
9月下旬には帝都復興院が設立されることになり、後藤新平が内務大臣兼任で総裁として、予算40 億とも50 億ともいわれる復興計画の構想を打ち出した。復旧ではなく、復興として都市改造が目指されたが、12 月の臨時国会で予算は縮小され、最終的に4億6,800 万円で実施された。翌年の1924 年には帝都復興院は廃止されたが、代わりに内務省の外局の復興局によって帝都復興事業が行われた。
約3,000ha の大規模な区画整理によって、下町の密集地域のインフラを整備し市街地化させ、現在も見られる大規模な幹線道路や公園等が整備された。
東京市立小学校は、震災前に195 校あったが、その2/ 3にあたる117 校が焼失した。東京帝国大学の教授であり「家屋耐震構造論」で日本の建築構造学の基本を築き、東京市の建築局長でもあった佐野利器( としかた) は、さらに都市不燃化・防災のシンボルとして、耐震耐火の鉄筋コンクリート造の復興小学校117 校の計画を推進した。そのうち52 校には、小公園が付設されて計画され、地域コミュニティの中心となることが期待されていた。

□出題例

No.1: 後藤新平らが主導した関東大震災からの「帝都復興事業」においては、鉄筋コンクリート造により不燃化・耐震化した復興小学校を建設し、隣接して小公園を整備した。(H29)
→(
No.2: ドイツのエンデ・ベックマン建築事務所による「帝都復興計画」では、築地・日比谷・霞が関一帯を含む広大な敷地に中央停車場を置き、三角形に構成された大街路や広場を含んだ計画が提案された。(R04)
→(× 問題の記述は「官庁集中計画」である。)
No.3: :(参考問題)関東大震災(1923 年)に関する次の記述のうち、最も不適当なものはどれか。(H7)
1. 後藤新平を総裁とする帝都復興院が設立され、帝都復興事業として、全罹災地を買収した後に、区画整理及び公共施設の整備を実施した。
2. 市街地建築物法に基づく規定が改正され、耐震設計における水平方向の地震力の規定が新設された。
3. 同潤会が設立され、当初は応急住宅を建設し、その後、耐震耐火の庶民住宅の供給を行った。
4. 東京市立小学校の2/ 3程度が焼失したので、復興小学校として、設計規格に基づき、鉄筋コンクリート造の校舎が建設された。
5. >明治時代以降、都市部での建築が盛んに行われたれんが造や石造の建築物も、大きな被害を受けた。

→( 事業予算の縮小により、全罹災地を買収しておらず、区画整理は日本橋周辺の一部の地域にとどまった。)

長浜市のまちづくり
1923年~/滋賀県

長浜市のまちづくり

1970 年代後半、長浜の中心となる商店街は衰退のかげりが見えていたと言われる。しかし1980 年、市民の寄付による長浜城の再建などもきっかけとなり、長浜に残る伝統的な建築や街並みを保存再生するような「博物館都市構想」が策定される。
そして1988 年、市民と行政による第三セクター「(株)黒壁」の設立などによって、伝統的な建築を改修して店舗を展開するような様々な町づくりが展開していった。
明治33 年に建てられた百三十銀行長浜支店は「黒壁銀行」として親しまれていたが、そこを拠点として「黒壁スクエア」など、伝統的な情緒ある街並みが保存再生され、美術館やギャラリー、レストランなどの商業施設が集まった観光スポットが生み出されてきた。
また、「(株)黒壁」は全国のまちづくり会社の先駆けとなり、そこからさらにまちづくりの市民組織が広がっている。

□出題例

No.1: 小布施町(長野県)においては、明治時代に建築された黒漆喰仕上げの建築物を保存・改装し、この建築物を核とした街並み「黒壁スクエア」を中心にして観光振興によるまちづくりを行っている。(H30)
→(× 設問の記述は長浜市のまちづくりである。)

門司港レトロ地区のまちづくり
1989年~/福岡県

門司港レトロ地区のまちづくり

1889 年(明治22 年)、門司港が開港し、大陸との貿易を行う国際貿易港として栄えた。
1989 年、そうしたかつての活気ある都市を再生するために、歴史的建物の修復・復元などの様々な事業計画が「門司港レトロ地区」に始まった。
門司港駅を始めとする重要文化財の整備や、旧門司税関の保存改修工事に加えて、新たな都市機能として、門司港ホテルや、跳開式可動橋「ブルーウィングもじ」、レトロ広場・親水広場や緑地などの整備が行われている。

主な歴史的建造物と新設された建築
1912 旧門司税関
港湾施設の中心。煉瓦造、瓦葺き2階建で建設された。1992~94年に保存改修工事が行われ、既存の煉瓦駆体部分や瓦屋根の補修・復元、木造軸組による2階や小屋組の新設などの改修が行われた。港湾の休憩・喫茶・ギャラリー・展望室などに使用されている。
1914 旧門司駅駅舎(JR門司港駅駅舎)
重要文化財。木造のネオ・ルネッサンス調の様式。駅前にレトロ広場が整備されている。
1917 旧大阪商船門司支店(商船三井ビルディング)
1921 北九州市旧門司三井倶楽部
1993 ブルーウィングもじ
歩行者専用の跳開式可動橋(はね橋)。恋人たちの架け橋。
1998 門司港ホテル
宴会ホールや料飲機能などをもったコミュニティホテル。

□出題例

No.1: 門司港レトロ地区(北九州市)は、門司港駅前に広がる明治・大正時代に国際貿易港として栄えた門司港地区の歴史的建造物の修復・復元を通して、地域の活性化を目的としている。(H21)
→(
No.2: 旧門司税関(福岡県北九州市)は、明治・大正時代の歴史的建造物を活かしたまちづくりである「門司港レトロ事業」の一環とし
て、明治45 年に建築された税関庁舎を、港湾緑地の休憩所等として再生・活用したものである。(H28)
→(
No.3: 門司港レトロ地区( 北九州市) は、門司港周辺の歴史的建造物群と関門海峡や門司港の景観を活かした街並みが形成されている地区である。(R01)
→(

美馬市脇町南町のまちづくり
1988年~/徳島県/美馬市脇町南町重要伝統的建造物群保存地区

美馬市脇町南町のまちづくり

阿波藍の集散地として、江戸時代から栄えた町屋が多く残っている。町屋は、屋根が本瓦葺き、大壁白漆喰の2階建かツシ2階建( 中2階建) の商家であった。切妻造の建築が、通りに対して棟が並行になり、店の出入り口が、平入りにつくられた町並みが続く。屋根の両端に本瓦葺で漆喰塗りの「うだつ」が設けられている町屋を多く見ることができる。
 卯建( うだつ) とは、建物の両端の妻壁を屋根より高く突き上げて、小屋根をつけた部分などを指す。中世・室町時代の京都の町家を描いた「洛中洛外図」に見ることができるが、当時は屋根面の風除け、身分の象徴であったと考えられる。近世以降の民家では、小屋根をつけた袖壁を庇屋根に置いたものなども卯建(うだつ)と呼ばれ、装飾的な役割や、防火性能を兼ねているものとされる。

□出題例

No.1: 卯建(うだつ)とは、一般に、妻壁を屋根面より高く突き出し、小屋根を付けた部分のことで、建築物の装飾としてだけではなく、防火性能を兼ね備えている。(R03)
→(

近江八幡市八幡のまちづくり
1991年~/滋賀県/重要伝統的建造物群保存地区

近江八幡市八幡のまちづくり

16 世紀後半の城下町から始まり、防衛や水運のために開削された八幡堀を活かした近江商人の在郷町から商家町へ発展する。明治以降、鉄道の開通と共に水運は衰退し、八幡堀は悪臭が発生するような場所となったが、1974 年以降の修景計画によって全面的に堀の底を浚い( さらい)、散策路や小公園の整備、蔵屋敷と堀沿いの景観の保全などが行われ、水緑都市モデル地区として、環境保全活動が行われてきた。
1991 年には商家町として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、その後、旧市街は「地域博物館あきんどの里」として、「白雲館 (1877 旧八幡東学校)」の保存・活用や「かわらミュージアム」の建設などによって地域づくりが推進される。そして「ハートランド推進財団( 市民による、市民のための、市民のまちづくり財団)」の設立(1996) などによって行政・ 市民が協力し、八幡堀沿いの景観と歴史などを活かしたまちづくりが行われてきている。

□演習問題

No.1: 近江八幡市八幡(滋賀県)は、江戸時代後期に開削された八幡堀を再生し、行政と市民が協力して歴史的環境を活かしたまちづくりが行われてきている。
→(